多世界解釈の問題(3)

●たくさん世界があるのに、「現に、今、この世界であること」を説明できない

多世界解釈が言うように、
異なる状況の肉体が、重なって同時に存在している
のが本当だとしても、
2つの世界を同時にみている肉体(ボク)
が存在するわけじゃないのだから、仮に、多世界が本当にあったとしても、ボクは多世界を見ることはできない。

結局のところ、「多世界」の存在を観測によって証明することができないのだから、「多世界解釈なんてただのヨタ話」にすぎない。

しかし、困ったことに、この「多世界が観測できないこと」を多世界解釈ファンに突きつけても、

『多世界が観測できないこと』は、多世界解釈となんら矛盾していません!だから、問題ありません!

というだけで、まったくめげない。それどころか、

「『多世界解釈が正しい』 と仮定したら、『多世界が観測できない』 という結論が出てきたのだから、むしろ、『多世界が観測できないこと』 は、 多世界解釈の正しさを証明しているといえるド―――ン!」

と超ポジティブに考える。

ちょっと納得がいかないかもしれない。
でも、この多世界解釈ファンの言い分は、理屈としては正しい。

少なくとも、「多世界が観測できない」ことを、多世界解釈を否定する根拠にはできない。観測ができなくたって、ホントウに「多世界」があるかもしれないからだ。

しかし!

この多世界解釈にも、ひとつ、説明できない大きな問題がある。
それは、
このボク 〜今、まさに、意識をもって世界を見ているボク〜 
という視点で、多世界というものを考えたときだ。


●なぜ、ボクは、このボクだったのか?

たとえば、実際に、シュレディンガーの猫の実験をやってみたとしよう。

『ボク』が、『生きている猫をみた』とする。

ここで、

生きている猫を見た場合は、脳がドロドロに溶けるような生き地獄を味わう

と決まっていたらどうだろう?

実際に痛みを感じている『ボク』からすれば、

ちくしょう!!ちくしょう!!
 なぜ『このボク』が、こんな目に会うんだよ!?
 一体どんな理由で、『このボク』は、
 『生きている猫を見ているボク』になったんだ!?
 『死んでいる猫を見ているボク』
 でも良かったはずなのに!
 ぎゃあああああああぁぁぁああああああああああ!


と ちょっと納得がいかないかもしれない。

そもそも、多世界解釈で、猫の実験を説明すると、「生きている猫を見ている脳」 と 「死んでいる猫を見ている脳」が、重なり合って同時に存在している、ということになるわけだが、よく考えてみれば、
「このボク」という視点は、そのどっちの脳でも良かったはずである。「このボク」という視点は、どっちの世界のボクでも良かったはずである。

でも、どっちでも良かったにもかかわらず、『このボク』という視点は、現に、今、生きている猫を見て、痛みを感じている。

これは、どういうことだろうか?
どっちでも良いのに、なぜ、『このボク』は、一方のボクとして世界を見ることになったのだろう?
一体、どんな仕組みで?一体、どんな要因で?

結局のところ、

今、まさに、生きている猫を見ているこのボク」に向かって、多世界解釈が、
『死んでいる猫を見ているボク』というのも、多世界にいるよ
と言ったところで、
じゃあ、なんで、ボクは、現に、今、生きている猫をみているんだよ!?
 現に、今、死んでいる猫をみていても良かったんでしょ!?


という疑問がどうしても残ってしまうのである。



無数の可能性の世界やボクが、
 存在しているにもかかわらず、
 なぜ、『ボク』は、『このボク』だったのか?
 なぜ、『ボク』は、
 『林原めぐみと結婚しているボク』じゃなかったのか?
 そんなボクでも良かったはずなのに!



この根源的な謎について、多世界解釈は何も答えてはくれない。

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