論理(2) 言語ゲーム

前回は、「AはBである」という言葉について、「A=B」という観点で考えてきた。
だが、一般的には、「AはBである」は、「AはBに含まれる」という意味で使われることが多い。たとえば、「僕は人間である」は、『僕』が『人間』というカテゴリに含まれている、という意味だ。

だが、ちょっと待ってほしい。
僕が人間というカテゴリに含まれている
と何故そんなことが言えるんだろうか?一体、何の根拠があって、そんなことを言ってんだろうか?

たとえばだ。

脳死した体は人間だろうか?
胎児は人間だろうか?
卵細胞は人間だろうか?


そう考えてみたとき、そこに「人間」と「人間でないもの」を分ける明確な境界線などないことに気がつく。

何百年も大昔なら
「異教徒は人間ではない」「黒人は人間ではない」
という文化を持つ国もあった。これらの言葉にも、「客観的な根拠」なんかない。それは国とか社会とかが、伝統的に「そういうもんです」と「決めつけた」だけである。

これは「僕は人間である」という言葉に限ったものではない。人間が使っている あらゆる言葉がそうなのだ。

これは、哲学史最大の言語哲学者であるウィトゲンシュタインの結論でもある。

言葉とは、客観的な根拠によって成りたっておらず
伝統的文化的に決められた生活様式というルール
を根拠として述べているにすぎない。このことを ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現した。

「僕は人間である」という一見正しそうな言葉でさえ、客観的な根拠を持たず、それを「正しい」としているのは、文化的伝統的なルール、つまり「決め付け」である。

だから、ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。

そうすると、言葉を使って論理的に何かを述べたと思っていても、その正しさの根拠は、結局のところ「決め付け」によるものである。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」なのだ。

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