道具主義

「概念、理論は、それらがいかに精密で無矛盾であっても、仮説とみなされるべきである。概念、理論は、道具である。 すべての道具と同様に、それらの価値は、それ自身の中にあるのではなく、その使用の結果、あらわれる作業能力(有効性)の中にある」デューイ

道具主義とは、
科学理論の役割は、結果の予測をすることなんだから、予測と結果に整合性さえあれば、理論は何でもいい
という考え方だ。

たとえば、キミがある実験をしていたとして、その実験結果と たまたまぴったり合う方程式を見つけたとしよう。だが、その方程式は、虚数などが出てきて非現実的で、しかも実験とはなんら関係のない数式に見える。

キミは、この方程式を世の中に発表するだろうか?

もしかしたら、
いやいや、実験結果と合っているのは偶然かもしれない。この方程式の理論的な意味づけがわからないのに、この実験と関連していると決め付けるのは早い
と考えるかもしれない。


しかし、道具主義者は言う。その方程式が、その実験のどんな理論を示しているか考える必要はないと。

「ある事象Aが起きたときに、ある事象Bが発生する」ということが継続的に確認されている時、そこに関数Xを仮定すればA→Bを説明できるのであれば、関数Xそれ自体の根拠は示さなくても、その関数を科学理論として採用しても差し支えない、
と道具主義者は考える。
ここで重要なのは、「関数Xの根拠なんていらない」ということではなく、
関数Xの根拠などは、いくらでもひねくり出せる。そして、どの根拠が正しいか知る術はない
ということだ。

頭の良い学者にかかれば、根拠となる理論的説明など いくらでひねくり出せるのだから、それらの正当性をいちいち検証していてもしょうがない。それに関数Xの根拠のために、理論的説明(関数Y)を作り出すのであれば、結局、関数Yへのさらなる根拠が必要になるだけである。

ニュートンの方程式でさえ、
「重力は、物体間の距離の2乗に反比例する」という数式を「なぜそうなっているのか」という理論的な説明もなしに物理学の基礎として置いている。

つまるところ、人間は、
理論の正当性を決める絶対的な基準を持たないのだから、せいぜい人間が持ちえる妥当な基準は「人間にとって役立つ知識であるかどうか」なのだ。

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