プロタゴラスとゴルギアス B.C.450年頃

B.C.450年頃、哲学史において、相対主義が現れた。

さて。
当時、ギリシャの民主主義社会で、富と名声を得るには、
大勢の民衆の前で、雄弁に話せるようになる必要があったため、
名家や金持ちのボンボンは、みんな、有名な教師(ソフィスト=知恵のある者)
のもとへと駆け込んだ。

そんなわけで、ソフィストという職業は、とても儲かった。

なかでも、プロタゴラスというソフィストはすごかった。
1回の授業で、軍艦2隻が買えるほどの金額を貰っていたそうな。

そんなプロタゴラスは、
「人間は万物の尺度である」という言葉で有名である。

ようは、
「ある人が、水に触って『冷たい』と感じたとしても、
 別の人が触ると『暖かい』と感じることもある、
 だから、『水が冷たい』とか『水が暖かい』とかは、
 それぞれの人間が、自分の尺度(基準)で勝手に決めたものである」
という単純な話だ。

だから、
「結局、『暖かい』、『冷たい』とかは、
 それぞれの人間の基準によって違うのだから、
 つまるところ、
 絶対的な真実として、水が冷たい』とも、『水が暖かい』とも、
 決して言うことはできない」
という結論になる。

で。
これにしたがって、思考を展開すれば、
「善」や「悪」についても同様のことが言える。

ある地方(人)では、「善」である行動が、
別の地方(人)では、「悪」だったりする。

したがって、誰かが「善だ」 「悪だ」と言っても、
それは自分を基準にして勝手に大騒ぎしているだけであり、
つまるところ、
「あの水が冷たい」という言葉が絶対的な真実ではないのと同様に、
「あれは善いことだ」とも「あれは悪いことだ」とも
絶対的な真実として言えないのだ。

だから、
「人を殺すことは、絶対的に悪だ」なんてことも言えないのである。
だって、「何が悪か?」なんてのは、
「人それぞれの価値観」に由来するのだから。

結局、プロタゴラスは、
「客観的な真理などというものはなく、
 主観的・相対的真理だけがある」
と主張する。

もうひとり、有名なソフィストを紹介しよう。
ゴルギアスだ。

彼はこのように主張した。

A) ものの存在は、人間の意識(知覚)なしにはありえない。
B) ものの存在の知覚と、それについての人間の思考は一致しない。
C) 人間の知覚を言葉で正確に表すことは不可能だし、
   他人にそのまま伝えることも不可能である。

あー、なんてミモフタモナイ話なんでしょ。

だが、たしかに、ゴルギアスの言うとおり、
「」という知覚(クオリア)と、
「赤だ」という思考(言葉)は、同じものではない。
そして、誰かに「自分は赤を見ている」と言っても、
自分の見ている「」という色そのものを
他人に伝えることは絶対にできない。

また、ゴルギアスは、こんなことも述べている。

「この世界は、(ある意味では)モノが存在していないと言える。
 というのは、仮に、モノが存在していたとしても、
 ワレワレはモノそのものを決して知りえないし、
 また、仮に、それを知りえたとしても、それを他人に
 伝えることもできないからだ」

ようするに、ゴルギアスは、

人間は、この世界について、何も知りえない!何も語れない!
感覚も思考も言葉も、な〜んにもアテになりません!
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁ!!

ってことを完膚なきまでに論証しようとしたのだ。

ともかく。
これらのソフィスト(職業教師)の影響により、

・絶対的な価値観や真理はなく、すべては相対的なものでしかない(相対主義)
・人間が、絶対的な真理を知ることなんて到底できない(不可知主義)

という「相対主義、不可知主義」
が、紀元前のギリシアに現れたのである。