哲学的問題(1)
「
そもそも、その哲学的問題を問題だと思うかどうかが問題なのだ」
哲学的な問題について、もっとも大きな問題は、その答えが正しいかどうかではない。(そんなものは最初から、確かめるすべなんてない)
哲学における最大の問題とは、
「
そもそも、それを問題だと思えるかどうか」ということだ。
たとえば、ある物理学者にとっては、
「
なぜマイナスの時間が存在しないのか」
というのは謎であり、大問題だ。
彼は、このことについて、何か理由や原因があるはずだと考えて、日々、頭を悩ます。この問題を他人と共有して、議論していきたいと思う。
でも、別の学者(特に専門分野外)からすれば、そんなものは問題でもなんでもなく、「
ど〜でもいいこと」だったりする。そもそも「時間」を物理的実在として考えるところからして「おかしい」と考えるかもしれない。
「
マイナスの時間?そんなのただのナンセンスだよ」
彼にしてみれば、なぜそんなことを問題とするのか、そもそも理解できなかったりする。
こういうとき、なかなか議論はうまく進まない。
お互いに『その問題』を共有していないのだから。
長々と話し合ったところで、互いの意見は、平行線のまま。(だから、専門分野の違う学者同士を集めても、なかなか議論が進まない。なぜなら、専門分野が違うと、問題意識の場所も違うからだ)
だから、哲学的な問題について議論するためには、まず相手に「
自分が何を問題としているのか?」を理解してもらう必要がある。もしくは、「
相手が何を問題にしているのか?」を理解する必要がある。
(ただし、それを問題だと理解できた時点で、その相手と同じ理論体系、思考構造を持ったことになり、逆に、その問題の外に出られなくなる可能性が高いのだが……)
この「そもそも問題だと思うかどうか?」ということは、どの哲学的問題にも付きまとう。
たとえば
「
今、見ている青や赤は、なんで、この色なのだろう?」
と考えるのもそうだ。
ちょっと、実際に考えてみて欲しい。
「なんで、赤は『
この色』なんだろう。今みている『
この色』は、どっからどういう仕組みで来たのか」
ということをそもそも問題だと思えるだろうか?
「
あ、そうだ!?そういえばなぜなんだろう?大問題だ!」と思うかもしれないが、なかには「
はぁ?そんなのどうでもいいよ」と疑問に思わない人もいる。
疑問にも思わない人にとっては、そういった哲学的な言説、つまり「観念が、イデアで、実体がどうのこうの」と言われたところで
「
ど〜でもいい、ラチのあかない机上の空論」にすぎない。
彼にとって、それはまるで、適当にまき散らした砂粒に対して「なんで、この模様になったのか?」を問うようなものだ。
「
そんなの意味なんてないだろ」
もしくは、自分でわざわざマイナスの時間というワケノワカランことを作り出して、自分で「なぜ?なぜ?」と悩んでいるようなものだ。
「
そんなのナンセンスだよ」
というわけで、哲学的問題の問題とは、
「
その問題に興味がない人にとっては、そんなことドウデモイイコト」で「
問題ですらない」ということだ。
そんなことは当たり前の話だが、
「
ある人にとって問題だと思えることが、ある人にとっては問題ですらない」
という事実は、哲学の世界において、大きな問題なのだ。
少なくとも、哲学者、哲学の本を書いている人、
他人と哲学について語り合いたい人、にとっては、とってもとっても高い壁で、大問題だったりする。
もちろん、この問題も、哲学に興味がない大多数の人間にとって、それこそドウデモイイコトだ。
(補足)
もし、あなたが、誰かと議論しているときに、「どうもかみ合わない」と思ったときは、自分の説得力や理解力を疑うまえに、「
そもそも相手が、自分と同じ問題意識を持っているか?」を疑った方がいい。もし、相手が「
自分が提起したい問題について関心がない」のであれば、何を言っても無駄なのだ。たいてい、見当違いな言葉ばかりが返ってくる。
そして、たいてい、みっともない口喧嘩に発展する。