受動意識仮説
もしかしたら、
「え?人間って、クオリアから情報を得て、物事を判断しているんじゃないの?ていうか、普通に考えて、クオリアがなかったら、判断なんかできないでしょう。だから、クオリア(イシキ、ココロ)が、脳に影響を与えているのは、自明のことなんじゃないの?」
と素朴に考えている人がいるかもしれない。
なるほど、たしかに、目の前に、信号があったとき、
○○●
という『赤』のクオリアを感じたから、「ああ、赤だね」という判断をして、道路を渡るのを止める決断をしたのだ、
という考え方は、ごく自然で、自明のことのように思える。
他にも、
「甘いというクオリアを感じたから、もっと食べようと思った」
「痛いというクオリアを感じたから、もっと欲しいと叫んだ」
などなど、「クオリアによって、脳が判断を下しているような事例」はいくらでも思いつくだろう。
だが、物理主義の科学者たちは、そういった素朴な考え方は、まったくの間違いで、勘違いにすぎないと主張する。
物理主義の科学者たちは、こういうだろう。
「『信号をみて、赤のクオリアを感じ、止まろうと判断した』とキミは言うが、そこで実際に起きていることは、
ある周波数の光が、目に入り、視神経を通って、脳まで伝わり、脳は過去の記憶から、それが『赤』のカテゴリに入る光であると認識し、そこから『赤は止まれ』という記憶を連想し、『道路を渡るのを止めよう』という思考を発生させた
という機械的な動作が起きたにすぎない。
そこに、クオリアという非物質的なものが、関わっている余地はどこにもない。
そもそも、信号をみて、赤になっていることを確認して、止まることぐらいは、簡単な機械にだってできるじゃないか。
つまり、別にクオリアなんか持ち出さなくても、人間が行っている判断は、脳の機械的な動作だけで、十分に説明可能なのだ。
人間の判断機能が、『脳の機械的な動作によって発生している』、という理屈で十分説明可能なのだから、わざわざクオリアを持ち出して説明する必然性はどこにもないだろう。
結局のところ、『人間の判断に、クオリアが関係している』というのは、すべて勘違いや錯覚のたぐいで、ヨタ話にすぎないのだよ」
もしかしたら、この科学者の主張を聞いて、
「いやいや!なに言っているの!?たしかに、理屈の上では、脳という機械でも同じことができるかもしれないけどさ、でも、やっぱり、僕は『赤』をみて判断したんだよ!だって、これ(●)を見たから、「赤い」ってわかって、「じゃあ、止まろう」って思うことができたんだ!
そんなの当たり前のことでしょ!どうして、これが錯覚だとか、勘違いだということになるんだ!?」
と疑問を持つ人もいるかもしれない。
では、科学者の主張をもう少し理解するため、映画館で、映画を見ている自分をちょっと想像してみて欲しい。
目の前のスクリーンには、色々な景色(クオリア)が映っている。
ここで、たとえば、
「前から車が来て、映画の中の主人公が『右へよけなきゃ!』と叫び、右へよけた」という映像が映ったとしよう。
もし、このとき、
「スクリーンに車が映ったから、僕は、車が来たと言うのがわかり、それで、右へよけようと決めたのさ」
と言ったとしたら、みんなに笑われてしまうだろう。
だって、スクリーン上に、次の瞬間、何が映し出されるかは、「僕」が決めていることではなく、背後にある「映写機」という機械が、勝手に、そのように映しているだけだからだ。
つまり、映画館で映像を見ている「僕(観客)」とは、映画の展開になんら関係してない存在であり、映画を「ただ見ているだけ」の役立たずにすぎない。
『右へよけよう!』と決断して叫んだのも、実際に、「右へよけた」のも、すべては、背後にある映写機(機械)が、勝手にやったことである。
したがって、もし、「僕(観客)」が、スクリーンに映った映像をみて、「自分で、映画の展開を決めている」と主張しだしたら、それはもちろん明らかな違いである。
しかし!
感情移入の激しい人であれば、ついつい、映画にのめり込みすぎてしまい、まるで、自分(観客側)で決断して動いているかように、錯覚をしてしまうということはありうる!
さてさて。
物理主義の科学者たちは、「脳とクオリアとイシキ」の関係を、このたとえ話における「映写機と映像と観客」の関係と同じであると考えている。
つまり、
映写機 = 脳
映像 = クオリア
観客 = イシキ
という関係なわけだが、ようするに、科学者はこう考えているのだ。
「クオリアというものは、映写機(脳)が動いた結果として、映し出される映像のようなもので、スクリーンに映った映像(クオリア)が、それを映し出している映写機(脳)に、何か影響を与えることなどないし、イシキ(観客)も、クオリア(映像)をただ見ているだけで、脳(映写機)という機械の動きに何も関与していない」
だから、クオリアを感じてる人が、素朴に、
「意識に、赤(クオリア)が映ったから、赤があると判断したんだ。それで、僕は、道路を渡るのを止めよう、と思ったんだよ。ほらみろ!やっぱりクオリアが、脳に影響を及ぼしているじゃないか!」
と問い詰めても、物理主義の科学者たちは、
「それは、まさに、映画館で映画を見ている観客のたとえ話と同じで、すべてキミの思い込みで、錯覚なんだよ。つまり、脳(機械)が作り出した判断を、『自分でクオリアをみて判断したのだ』と勝手に勘違いしてるだけなのさ(笑)」
といって笑うだけである。
そもそも、一般的な科学者の立場からすれば、
「イシキに赤が映し出されたから、赤があると脳が判断した」
のではなく、
「目などの感覚器官とつながった脳が、情報処理を行って赤があると認識し、その結果として(なぜだかわからないが)イシキに、赤が映った」
と考える方が、自然だし、むしろ、
非科学的、非物質的なクオリアが、脳に作用して、赤を認識した
という方が、よっぽど無茶苦茶なことを言っているように思うだろう。
結局のところ、素朴に「クオリアを感じた結果として、脳の動きが変化した」と考えてしまうと、脳という物理装置から離れたイシキ、霊体、魂などの物理学で定義されていない「何か」が、脳を操縦している、という結論になってしまう。
当然、科学にとって、それは到底受け入れられない結論であり、それよりまだ
「すべては、脳が機械的に判断した、という理屈で説明可能であり、クオリアが判断(脳の動き)に影響を及ぼしたという根拠は何もありません。イシキが、クオリアを感じて、何かを判断したという感覚は、映画館と観客のたとえと同じで、ただの錯覚、勘違いということで説明可能なのです」
という方が、よっぽど合理的で常識的な結論なのだ。
このような、
「人間のイシキというものは、ただ見ているだけ、ただ感じているだけで、何の決定権もなく、脳が機械的に動いて決めたことを、自分の自由意志で動いていると勘違いしているだけの哀れな存在にすぎないのです」
という考え方を受動意識仮説と呼ぶ。
もちろん、受動意識仮説を認めてしまうと、
大好きなあの人を愛おしいと思う気持ちも、
夢に向かって、がんばろという熱い意思も、
すべては、イシキの背後にある脳という装置が生み出したものであり、自分の自由意志で、意識的に決めたというのは、すべて勘違いということになり、
そ、そんなこと言ったら、人間の意思になんの尊厳もなくなってしまうじゃないか(@△@)
という話になってしまうが、
そもそも、この世界に、物理学以上の存在を認めないのであれば、世界のすべては、物理学の方程式にしたがって動く、機械的な存在にすぎないのだから、当然、脳も、意識も、機械的な存在である、ということを受け入れざるを得ないのは、当たり前の話なのだ。
逆に、もし、どうしても、人間の尊厳を求め、機械的な意思を否定したいのであれば、既存の物理学以上の何か、イシキ、霊体、魂などの未知の存在が、物理的な作用を起こすこと(サイコキネシス)を受け入れるざるを得ない。
どっちを選ぶかは、あなたしだい……。
という選択も、脳が決めたことにすぎない……
という考えを選択したのも、脳が決めたことに……
――ワレワレが、クオリアを『理解』できる日は来るのだろうか

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ヒトも、虫やロボットと同じような自動機械だということを受け入れて、自動機械なりに寿命を全うすればいいのではないでしょうか。
前野 隆司