自閉症

自閉症の悲劇は、その症状そのものよりも、
周りの無知な人間たちから誤解されてきたことにある。

まず、「自閉症」という言葉が悪い。

たとえば、「自閉症の子供」という言葉を聞けば、どうしても、
「なにか精神的に辛いことがあって、ココロを閉ざしてしまった子供」
という印象を与えてしまう。

そして、実際、古くから、自閉症は「ココロの病気」とされ、
幼児期に母親から拒絶されるなどの「精神的ショック」から生じるもの
だと言われてきた。

そのため、自閉症の子供をかかえる親は、
「自分の育て方は悪かったばっかりに……」
「私の配慮が足りないばっかり……」
と自分を責める傾向にあった。
また、周りの人たちも、
「親がロクな教育しなかったから、あんなふうに育ったんじゃないの?」
「虐待でもしてたんじゃねぇーの?」
とその親を非難の目でみる傾向にあった。

しかし、近年の研究によれば、自閉症とは、「生まれつきの脳障害」であり、
親の育て方や、本人の性格とは、一切関係がないことがわかってきている。

以下は、自閉症についての認識を一変させた
有名な「サリーとアンの実験」である。

『2つの箱がありました。
 サリーは、右の箱Aに、リンゴを入れて、外に出かけました。
 意地悪なアンは、サリーがいない間に、箱Aからリンゴを取り出して、
 隣りの箱Bに移し変えました」

さて、この物語を見せたあと、自閉症の子供に次の質問をする。
「戻ってきたサリーは、リンゴを取り出すとき、
 どちらの箱を開けるでしょう?」

ここで論理的に考えるなら、
「サリーは、リンゴが移し変えられたことを知らない」のだから、
『サリーは、まず、箱Aを探す』と当然答えるだろう。

しかし、多くの自閉症患者は、共通して「箱Bを探す」と答えてしまう。

なぜだろうか?

近年、それが調べられ、実は、
「自閉症患者の『脳』では、
 他人の視点を想像して推論する機能が働いていない」
ということが分かったのである。
ここに、自閉症という語感特有の
「ココロを閉ざしている、引っ込み思案」
などの性格的なものは一切ない。

単純に、
脳に、その機能がないから、それができない、
それだけの話だったのだ。

結局、脳みそという機械の問題なのであり、
つまるところ、
「テレビや冷蔵庫の回路が壊れている」
 → 「正常に機能しない」
ということと同じで、
そこに「ココロ」がどうとか、そういう妄想は一切いらないのである。

それを「ココロの病気」などというわけのわからない言葉で
ごまかしていたために、たくさんの誤解を生み、多くの人を苦しめてきた。

(追伸)
「サリーとアンの実験」で明らかになったのは、
ワレワレが普段、当たり前で自明で普遍的だと思ってきた「論理」も、
実は、「単に脳の機能として発生している」にすぎない、
ということである。

この、一見、自明そうな「物語」ですら、
それを解釈するための機能を持たない人にとっては、
まったく意味のわからないヨタ話にすぎないし、
「そんなの当たり前だろ!」と思っている人たちだって、
脳のその部分を壊してしまえば、同じ物語が一瞬にして理解不可能なものに
変わってしまうのだ。

ところで、一般的には、
自分の「感性」や「性格」や「ものの考え方」というものを
「自分とは決して切り離せない必須要素」
「自分を自分だと見なせる個性」
として捉えていることが多い。
そのため、もしも、仮に、タマシイやココロが存在するならば、
肉体という物質が崩壊しても、
「今と、同じような感覚、感性」が、
そっくりそのまま残るだろうと思いがちだが、
それはまったく不可能で絶望的なことである。

結局のところ、
ワレワレが「これが自分だ」と思い込んでいる「感性、性格、ものの考え方」が
すべて肉体に依存していることは、明らかなのだから、
ココロやタマシイやレイコンがあろうとなかろうと
死後もそれが継続するだろうという考えは、まったくのナンセンスなのだ。