原理的に不可能
「
原理的に不可能です」という言葉があり、本サイトでもよく使っているが、この 「
原理的に不可能」とは一体どういうことだろうか?
そもそも、本当に、「不可能」なのだろうか?
人類は進歩することによって、今まで「
不可能」だったことを「
可能」にしてきたじゃないか!
いやいや、そういうことではない。
「原理的に不可能」は、ただの「不可能」とはわけが違うのだ。
禅に、こんな物語がある。
夜中、いきなり師匠が飛び起きて、弟子達をたたき起こした。
師匠「
こんな夢をみたんだ!誰かこの謎を解いてくれ!」
それはこんな夢だった。
ツボに入っていたガチョウの卵が、そのまま孵化してしまった。このまま、放っておいたら、ヒナのガチョウは死んでしまう。しかし、そのヒナのガチョウは、ツボから出るには、大きすぎた。だから、ガチョウをツボから出すためには、ツボを割るしかないのだが、そのツボは非常に高価なもので、とても割るという決断はできなかった。
師匠「
いったい、ワシはどうすればいいんじゃ!」
そういって、錯乱した師匠は、弟子達を殴り始めた。
そこで弟子達は、一生懸命、頭を使って、何か方法は無いか、考え始めたのだが、どう考えても、うまい方法は見つからなかった。
しかし、師匠は「
グズグズするな!」と決して弟子たちを許さず、「
なんとかしろ!」と殴り続けたという……。
どんなに考えても、ガチョウを助けるためには、やっぱりツボを壊すしかない。
でも、ツボは壊したくない。
でも、ツボを壊さなければ、ガチョウは死んでしまう。
でも、ガチョウを助けてあげたい。
結局、
どう頑張っても、同時に両方を救うことはできない。
「
原理的に不可能です」というのは、
この状況によく似ている。
たとえば、ゲーデルの
不完全性定理によって、数学は「
不完全である」と証明されたが、それを覆すことは原理的に不可能だ。
まず、そもそも、「
数学は不完全である」というのは、「
数学の証明によって出てきた結論」である。ゲーデルは、数学理論のなかに『
パラドックス(正しいとしても間違っているとしても矛盾が生じてしまう命題)』が、『
必ず存在してしまう』ということを
数学的な手続きで証明したのだ。
したがって、数学者は、
「
数学によって証明されたことは正しい(=数学は正しい)」
という前提を承知するならば、
「
数学は不完全である」という結論を承知しなくてはならない。
もし、それでも、偏屈な数学者がいて、
「
いいや、数学は、不完全なんかじゃありません!」「
不完全性定理こそ間違っているんじゃないのか!」と不完全性定理を認めないとしたら、彼は、
「
数学の証明によって出てきた結論が間違っている」
と述べることになってしまうわけで、そうすると、彼は、「
数学は正しい」という前提が
間違っているという結論を承知しなくてはならない。
――結局、どちらにしても、数学を救うことはできない。
つまりは、ある「正しい前提」にしたがって「不可能」という結論が出てるときに、無理やり
「不可能」を可能にしてしまうと、
「正しい前提」も一緒に壊れてしまう、という話だ。この意味で、数学を完全なものにすることは「原理的に不可能」である。
ようするに、「原理的に不可能」とは、
理論に刺さった致命的なトゲである。やっかいなのは、
そのトゲを壊してしまうと、理論の方も崩壊してしまうことだ。だって、そのトゲも
理論の一部なのだから……。そのトゲは
理論全体につながっているのだから……。
結局、そのトゲが、どんなに痛々しくても、ワレワレは何もできずに、見ていることしかできない……。
今、哲学や科学に元気がなく、「
がんばって、いつか不可能を可能にします!」と少年のように目を輝かせていないのは、このような原理的な問題(トゲ)をどんどん見つけてしまい、気がついたらトゲだらけで動けなくなってしまったからだ。
「原理的に不可能」
ワレワレは、それをどうやっても可能にできない。
(補足)
ところで。禅の話には続きがある。
「
ガチョウは外に出ています!!」
と言って、師匠を殴り返した弟子だけが許され、後継者として選ばれたそうだ。
ようするに、「ガチョウは外に出ています!!」
もしくは、
「
そんなもん夢だろぉが!バカなこと言ってんじゃねぇよ!」
と、師匠をぶん殴って、前提そのものをぶち壊す勇気を持つものしか、原理的に不可能な物語を乗り越えられないという話だ。
「原理的に不可能」
それでも、どーしても、ひっくり返したいなら……、
――もはや「
世界を革命する」しかない。そういうことだ。