フレーム問題(2) 考察

なぜ、人間には「フレーム問題」が発生していないのか?

その答えのひとつとして、
「人間は、自分勝手に『自分の世界』という閉じられた狭い世界を
 頭の中に作り出して、その中で生きているから」
というのはあるかもしれない。

ようは、考える範囲が少なくて、しかも自己完結しているので、
思考が暴走せずにすんでいるのではないか、
ということだ。

もちろんそうすると、「自分の世界(枠)」の外側を、
まったく意識できないのだから、
多くの間違いや失敗を繰り返すことになってしまう。

しかし、とはいうものの……、
「自分の世界」という枠をやたらに広げて、思考が暴走しては元も子もない
ということはあるだろう。

あまりに「枠」が広すぎると、検討すべき事項が多すぎるため、
脳が暴走して、うまく機能することができない。

実際のところ、

「こんなこと言ったら、相手はどう思うかなあ。
 前はこんなこと言って失敗したしなあ」

なんて無用な心配をしながら、会話をすると、シドロモドロになってしまう。
すんなりと次の言葉が出てこない。

逆に、気の合う友達など、何も心配する必要のない相手であれば、
なぜか、すらすらと言葉がでてくる。

これは、一種のフレーム問題ではなかろうか。

とするならば、このような人間の解決法は、
いかに「自分の世界を狭めるか?」ということで、
つまり、
「どうにもならないこと、自分の能力以上のことは、はやくあきらめろ」
ということだ。

もし、現状、「自分の世界」が生きにくくて、不幸を感じているのならば、
それは単純に「あなたの能力以上にフレームが大きすぎる」という話にすぎない。

(補足)

「あの……、そういうこと言うと、相手は傷つくと思うよ」
「はぁ?なにいってんの?いちいち、気にすんなって!(笑)」
「い、いや、でもさ・・・あの・・・相手の立場で考えたらさ・・・」
「あ〜、なんだよ?うるせえな!ぶっとばすぞ!!」

たいていの場合、自分や他人に鈍感で「視野の狭い」人間は、快適に生きられる。

逆に、自分や他人に敏感で「視野の広い」人間は、
それに見合う処理能力がないとき、
前者よりも、確実に不便で惨めな人生を送ることになるだろう。

つまるところ、「視野が狭い=悪い」「視野が広い=良い」という問題ではなく、
自分の処理能力に応じた「視野の大きさ」を持つべきだと言うことだ。

無責任な先人の言うことを真に受けて、
「なんでもかんでも視野を広く持てばいい」
ということでは決してないのだ。

もちろん、成長したいのなら、「フレームを広げる」べきだろう。
ただ、そこに、フレーム問題という困難があることを忘れてはならない。

能力以上の「世界」で、パニックを起こして惨めに生きてもしょうがない。