物質(2)
「そこに粒子(ボール)がある」とはどういうことだろうか?
我々は、いったい、どんなときに「粒子がある」と認識するのだろうか?
そもそも、なぜ、「そこに野球のボールがある」と認識できるかというと、
「太陽なり、電球なりから発せられた光が、ボールに当たり、ボールから反射した光が、目の網膜に届く」
からである。
もし、光がボールとぶつかっても、跳ね返らずに通り抜ければ、透明なボールということになり、誰もそこにボールがあるとは気付かないだろう。ようするに、光がボールとぶつかって、跳ね返るから、ボールの存在を認識できるのだ。
(手で触って、「そこにボールがある」と認識するのも仕組みは同じである。手の「分子」が、ボールとぶつかって、跳ね返るから、「ボールがそこにある」と感じたり、つかんだりできるのであって、もし、「手」と「ボール」が、ぶつかっても跳ね返らなければ、手はすり抜けてしまい、やっぱり、誰もそこにボールがあるとは気付かないだろう)
結局のところ、我々は、「光を当てると跳ね返す」という「性質」を観測しているのであって、「粒子というモノ」を観測しているわけではないのである。
たとえば、ちょっと想像してみてほしい。
真っ暗で何もない空間に、見えない小人さんがいて、そこに、光を放ってみたとする。そして、その小人さんが、ラケットか何かで、バシバシその光を打ち返したとしよう。
打ち返された光が、目やセンサなどで観測されれば、ある空間の一点がぴかっと光ってみえて、我々は、「あ、そこに何か小さな粒子があるぞ!」と考えるわけである。
だが、我々は、粒子そのものを見ているわけではない。
あくまでも、我々が見ているのは、「小人さんがラケットで光を跳ね返した」ということである。もっと正確に言えば、我々は、小人さんの「光を跳ね返すという性質」を観測しただけである。そして、そういう「ある位置を持って、モノを跳ね返す」という性質を持った何かに対して、我々は「粒子」という名前をつけているから、それを「粒子」だと考えているだけである。
仮に、もし、小人さんが、
「おれはもう、二度とラケットはもたねぇ!」と、光を打ち返すのを永遠にやめてしまえば……(そういう性質がなくなってしまえば)光は通り過ぎてしまい、「ホントウはそこに小人さんがいる」にも関わらず、我々には「そこに粒子は存在しない」という判断しかできなくなる。
また、小人さんのかわりに、別の何かを連れてきたとして、その別の何かが、小人さんとまったく同じ「光を跳ね返す性質」を持っていたとしたら、「ホントウは別の何かに変わった」にも関わらず、我々には、「同じ粒子が存在する」という判断しかできないだろう。
つまるところ、我々は、そこに粒子があるから、粒子を観測しているのではない。そこに「我々に粒子だと認識させるような性質」があるから、「そこに粒子があるのだ」と考えているだけである。
だから、我々が、本当に問いかけるべきなのは、
「我々に粒子だと認識させる性質(粒子性)を引き起こしている何か」
とはいったい何なのか?
ということである。それなのに、
「ねぇ、どうして、あのボールは、そこに存在しているの?」
「あのボールは、さらにもっと小さなボール(原子、陽子etc)から出来ているんだよ」
と答えようとするなら、それは、つまるところ、「ボール(粒子性)は、ボール(粒子性)でできている」と言っているだけであり、まったく本末転倒で、何の問題解決にも、なっていないのではないだろうか?
いったい、なぜ、そこに物質(粒子として観測される何か)があるのか?なぜ、粒子性というものが存在するのか?
探求は続く。

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