物質
物質っていうのは、一体なんだろうか?
ちょいと、これについてテツガクしてみよう。
では、問い。
「自転車」は物質だろうか?
自転車は、見たり触れたりできるので、単純に「物質ですよ」と言いたいところだが、よく考えてみよう。
まず、自転車とは、ハンドルとかペダルとかサドルとか、色々な部品から構成されている。そういうたくさんの部品の構成によって、
「
人間がペダルを漕いで進むことのできる乗り物」
という
性質(システム)が発生している。
そして、その『
性質』に対して、人間が勝手に便宜的に「
自転車」という
名前を付けただけである。
それが証拠に、「自転車」から、ハンドルとか、サドルとか、そういう部品をひとつひとつ取り外してみよう。「自転車」というものを取り外したわけでもないのに、そこから「自転車」というものは消え去ってしまう。逆に、取り外した部品をもう一回組み立てたら、そこにいきなり「自転車」が現れる。また、組み立てるとき、別のハンドルに取り替えたっていい。部品は交換可能なのだ。それでも、そこに「自転車」が現れる。
この話から、「自転車」とはあくまで、
「
複数の部品の構成によって、発生した性質(システム、仕組み)について、人間が便宜的に名前を付けただけである」
ということがわかる。
つまり、「自転車」という存在は、独立した確固たるものではなく、観念的なものなのだ。
では、自転車を構成している「ハンドル」はどうだろうか?ハンドルは、鉄とかアルミとかで出来ている。その鉄原子の塊が、「ある形」になって、人間がつかむことができるという性質を持つので、「ハンドル」という名前が付けられているわけだが……。これも同様に、ハンドルを構成している「鉄原子」という部品を
バラバラに分解してしまったら、「ハンドル」という存在は消え去る。
「ハンドル」も観念的な存在である。自転車のときと同じ論法だ。
じゃあ、次。
そのハンドルを構成している「鉄(鉄原子)」は物質だろうか?
「
そりゃあ、そうでしょ。『鉄』は物質だよ。決まってんじゃん」
とまあ、普通はそう考える。
だいたいのところ、日常的には「物質」という言葉をきくと、
「鉄」とかそういう硬い何かを思い浮かべる。
だが、待って欲しい。ここにはひとつの思考停止がある。なんで、自転車のときと同じ論法を「鉄」に対しても、やらないのだろう。
だって、
「鉄原子」も、やっぱり部品の集まりにすぎないのだ。鉄原子は、「原子核と電子」で構成されている。
そこには「鉄原子」という独立した確固たる何かがあるわけじゃない。
「原子核と電子」という集まりによってできた性質に対して、人間が便宜的に「鉄原子」という
名前を付けただけだ。原子核と電子をバラバラにしてしまったら、もうそこには「鉄原子」なんかない。
自転車のときと同じ論法だ。
で。
その原子核も、
中性子と陽子があつまってできたものだ。これも自転車のときと同じ論法が使える。
原子核という確固たる存在があるわけではない。
で。
陽子は、クォークがあつまってできたのものだ……。
これも自転車のときと同じ論法が……
一体、どこまでそれが続くのだろうか?
結局のところ、人間は、
「
ある要素Aと要素Bがあつまってできた性質(システム)に対して、『これはXである』と名前を付ける」
ということをしており、そういう存在を「
物質」だと呼んでいるのだ。
その階層はどこまでも小さく、どこまでも大きく続く……。
もし、鉄を物質であると呼ぶのなら、自転車も、会社も、国家も、太陽系も、銀河系も、宇宙も、すべて同等の物質だと言うことができる。
逆に、「会社」も「国家」も、物質ではない、人間の便宜的な観念的な存在だとするならば、鉄だって、陽子だって、クォークだって同じ論法で、便宜的な観念的な存在になってしまう。
結局のところ、国家と鉄原子は、同じレベルの存在なのである。したがって、
「
国家は物質ではない。鉄原子は物質である」
なんていう考え方には何の根拠もない。本来、
国家と鉄原子を隔てる理屈なんて、本当はないのである。
物質とは何か?
探求は続く。