哲学的ゾンビ


●哲学的ゾンビとは

あなたは、こんな想像をしたことがあるだろうか?

もしかしたら、「痛さ」や「悲しみ」を感じているのは自分独りだけであり、自分以外の人間は、ただロボットのように、何も感じずに、ただ状況に反応して自動的に動いているだけではないだろうか……?

もしかしたら、僕の周りで、

ありがとう、とっても嬉しい♪
……好きです
痛いよ!もうやめてよ!
おまえなんか死んじまえ

とか言っている人々は、実は、なんの主観的な体験も持たずに、ただ機械的にそう言っているだけかもしれない……。

―という、そんな想像である。

このように、
外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、内面的には、意識を持たない……主観的体験を持っていない人間
のことを「哲学的ゾンビ」と呼ぶ。

このゾンビは、物質的には普通の人間とまったく同じであるのだから、もちろん脳も神経も持っている。だから、ゾンビに「赤いもの」をみせれば、彼の脳内の「赤」を認識する部位が反応を示し、
今、わたしは赤いものをみています
と話すだろう。
したがって、脳科学的には、まったく普通の人間と区別がつかない。

だが、にもかかわらず、彼は「クオリア)」を見ていないのである。

もしかしたら、自分の友人、恋人、家族が、こういう哲学的ゾンビではないかと疑ったことはないだろうか?彼らは、口では「痛いよ!」とか「おまえを愛しているんだ」と言っているが、実は、何の主観的体験もなく、クオリアを感じないまま、脳という機械が、ただそう言っているだけなのかもしれない……。

もちろん、人間だろうが、犬だろうが、石だろうが、「自分以外の他人がどんな主観的体験を持っているか」なんてことは、原理的に知りようがないのだから、「アイツが哲学的ゾンビかどうか」なんて疑ったところで、まったく証明しようのない不毛な疑問にすぎない


●では、哲学的ゾンビから何が語れるか?

そのまえに、はっきりさせておこう。

もし、我々が、一般的な物理主義の立場をとるのであれば、
人間のイシキやココロなどによって、物理法則が変化することはありえない
と考える。
ようは、僕のイシキによって、ボールの軌道が曲がったりしないよ、という当たり前の話だ。

この物理主義の立場では、今、僕に起きている「イシキ、主観的体験」というのは、「脳という物理的な機械」の動きに付随して発生している現象にすぎない。その証拠に、「脳という物理的機械」の物理構造をいじってしまえば、僕のイシキは、そのとおりに影響される。
(たとえば、脳をいじれば、「赤」が見えなくなったり、見えるようになったりする)

では、「イシキ、主観的体験」というものが、「単に脳という機械に付随するもの」であり、「物理法則と一切関係しない」のであれば、当然、「イシキ、主観的体験」が、脳という物理的機械の動きに、影響を与えることはない

至極当然の話のように思えるが、そう考えてしまうと、少しだけ奇妙な疑問がでてくる。

というのは、「イシキ、主観的体験」が、脳に一切影響を及ぼさないのであれば、脳は、「イシキ、主観的体験」があろうがなかろうが、機械的に淡々と物理法則にしたがって動作するだけなのだから、脳に「イシキ、主観的体験」なんかなかったとしても、まったく問題なく、なに不自由なく人間生活ができるということになる。

そこから導き出される結論は、
イシキとか主観的体験なんて、全然必要なかった
ということになる。

もっと、はっきりいえば、
「この私」の意識なんて、この世界に、まったく必要の無い存在なのだ
ということだ。

だって、「私の意識」が「(というクオリア)」をみなくても、「あの夕日、赤いね、綺麗だね」と脳が話せるのだとしたら、そもそも「(今、現に意識の上に映っているこの色)」なんか余計なものであり、こんなものは見えてなくてもよかったのだ。

ある日、朝起きたら、「私」は内面的に死亡してしまって、「私の意識」がなくなってしまったとしても、私の体は、淡々と、起きて、食べて、友人と笑ったり、恋人と喧嘩して寝て……と今までと変わらず生活ができるのである。

結局のところ、「私の意識」は「私にしか必要のないもの」なのだから、大きな観点からすれば、「哲学的ゾンビの方が自然」であり、むしろ「この私」の方が、
イシキ、主観的体験という元来必要の無い付随機能を余計に持っている不自然な存在
ということになる。

しかし、どんなにイシキや主観的体験が不自然な存在だったとしても、事実として、現に、今、私は意識を持っており、主観的体験により世界を見ている。

これは一体何故だろうか?
一体、なぜ、機能的には、まったく必要のないものが、わざわざ発生しているのだろう?


もし、逆に、
イシキや主観的体験も、機能的に必要だから存在している
というのであれば、
われわれは、イシキや主観的体験が、脳という物理的機械の動作の決定になんらかの影響を与えている
ということを受け容れ、物理主義の考えを改めなくてはならない。

ディビット・チャーマーズは、この哲学的ゾンビという喩えを用いて、イシキ、主観的体験における新しい哲学的課題を提示し、当時の人々に大きな衝撃を与えた。

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もし完全な無意識で主体のない情報処理が、
かつて意識する心がもっていた目的を常に達成できるなら、
意識は何のためにあるのだろうか。

竹尾冶一郎

『てつがくフレンズ』

⇒(続き) 『てつがくフレンズ』