2重スリット実験(7) 完結編
つまるところ、2重スリット実験の最大の謎とは、
「
1個の粒子として観測される電子が、なぜ、
2つのスリットを同時に通り抜けられたのか?」
ということになる。
この謎は、既存の世界観ではうまく説明できなかった。
そこで、
「
電子は、観測する前は波のような存在だが、観測すると粒子になる」
「
その波は、粒子がどこで観測されるかという確率の波である」
という新しい世界観を持ち込む必要があった。
結局、観測する前の電子は、「波のような存在」なのだから、2つのスリットを同時に通り抜けたとしても、何も問題ない。たしかに、この考え方(世界観)に従えば、2重スリット実験をうまいこと説明することができる。
だが、それでも本当に、納得できるだろうか?
「粒子」という位置や質量を持ったカチコチのものが、観測していないときは、波のようなモヤモヤした存在になって、2つのスリットを通り抜けた、という説明を受け入れることができるだろうか?
疑問が残るかもしれない。
そこで、この不可思議な量子力学の世界観について、すこし哲学的に説明してみよう。
まず、そもそも。
「
電子は、見ているときは粒子だが、見ていないときは粒子ではない」と量子力学は述べているが、日常的でマトモな思考をする人であれば、「
見ていないときも粒子に決まっている」と考えるだろう。
だが、その日常的な考えは、哲学的に考えるとまったくおかしい。だって、
「見ていない」のに、なんで粒子だってわかるのだろうか?哲学者であれば、その問題に気がつき、「
見ていないときも粒子に決まっている」という主張は、「
何の根拠もない、思い込み」であると判断するだろう。
ようは、「
見ていないときも粒子」なんて言うのは、
「
ボクの彼女は、ボクと会っているとき、いつも清楚な人だ。だから、ボクと会っていないときでも、清楚な人に違いない」
と言っているのと同じだということだ。
そんなことを言う人がいたら、哲学者じゃなくても
「
そんなのはオマエの思い込みかもしれないだろ!会っていないときに、その女の子が、どうしているかなんて、わかんねぇだろ!」
と突っ込む。
「
だって、見ていないんだから、わかるわけがない」
それだけの話だ。
「
見ているとき、いつもカチコチの粒子だから、見ていないときもカチコチの粒子」だなんて考えは、どこにも根拠なんかないのだ。
「
見ていないときには、どうなっているかなんて、本当のところはわからない」
結局のところ、我々は、
観測していない存在について、「○○である」と断言することは決してできず、「○○かもしれない」という可能性しか論じることができない。
さて、ここまでの哲学的な結論を踏まえれば、
「
1個の粒子を飛ばしたときに、2つのスリットを通り抜けたものは、一体なんだろう?」
という問いの答えは明らかである。
それは「
スリットを通り抜けたかもしれない」という
可能性である。
ちょっと想像してみよう。
今、ボクの目の前に巨大なスクリーンがあり、そこに粒子の到達を示す「点」が映し出されたとする。ふと振り返って、後ろを見ると、2つのスリット(穴)が開いた壁があり、そのスリットの向こう側に、電子銃が見える。
さぁ、このとき、僕らは電子について、何が言えるだろうか?
ボクらは、電子について「スリットAを通り抜けた」とも「スリットBを通り抜けた」とも
決して断言できない。せいぜい言える事は、
「
う〜ん、たぶん、電子は、スリットAを通り抜けたかもしれないし、スリットBを通り抜けたかもしれないよね」
という
可能性についてだけである。
そして、現実は、まさに言葉どおりなのである。
結局、「2つのスリットを通ったのは何か」と問われれば、
「電子が通ったかもしれないという可能性だ」としか言えないのだ。
むしろ、
「
電子は、絶対に一方のスリットしか通り抜けていない!だから、一方のスリットだけを通り抜けたとして、この実験を考えるべきだ!」
という方が、何の根拠もない。
それどころか、そう考えてしまうと、
干渉縞が発生するという事実を説明できない。
結局、スクリーン上で観察された電子とは、「スリットAを通り抜けたかもしれない」「スリットBを通り抜けたかもしれない」という
2つの可能性をもとにして、観察されたものである。
だから、2つの可能性をきちんと「
重ね合わせて」考えなくてはならない。この重ね合わせの結果として、「
干渉縞」が見出されるのである。
(もし、ワレワレが見ていないときでも、電子が粒子であり、一方のスリットしか通らないのであれば、一方の可能性しかないのだから、決して「重ね合わせ」は起こりえない。つまり、干渉縞は起こりえないのだ)
ようするに、2重スリット実験の革命的なところは、
「
電子を観測しているとき、いつも1個の粒子だから、観察していないときでも、1個の粒子に決まっている」
というカチコチの世界観に対して、
「
それは何の根拠もない思い込みにすぎない」ということを示し、
むしろ、
「
観察していないときは可能性しか論じられず、観測していないときには、その可能性こそが存在である」
という、まるで言葉遊びのような概念の方が正しいということを
実験的に証明したことである。