物理主義でクオリアは解決できるか?その2

(2)客観化の問題

たとえば、僕が、僕自身の脳を実験材料にして、脳とクオリアの関係を明らかにできたとしよう。

それはそんなに難しいことではない。僕がリンゴをみて、これ()を感じてるとき、脳科学者に、僕の脳の状態を調べてもらえばいいだけだ。

そこでもし、実際に脳の状態を調べてもらって、僕があるクオリアX()を感じているとき、脳の物理的な状態が「A」になっていることが、継続的に確認できたとしたら、
脳の状態A ⇒ クオリアX(
という関係性が見つかったと言えそうである。

そしてさらに、ほんのちょっとだけ勇気を振り絞って、自分の頭蓋骨をこじあけて脳に電極を刺し、電気を流して、無理矢理、脳の状態を「A」にしてみよう。物理的な作用で強制的に、脳を状態Aにしたときに、僕の意識にこれ()が浮かび上がるようなら、もはや、
脳の状態A ⇒ クオリアX(
という関係性はかなり確実なものだと言えそうだ。

もちろん、なぜ、脳が「状態A」になると「このクオリア()」が出てくることになるのか、合理的な説明はできない。

だが、まぁ、そこはいいのだ。説明がつかないものは、つかないものなのだと謙虚に受け容れてしまえばいい。科学(物理主義)は、何もすべてを説明しなければならない、という義務があるわけじゃない。

とにかく、なぜそうなるのかわからないが、そこは「えいや!」と割り切って、
脳の状態A ⇒ クオリアX(
という関係性があるのだということにしてしまおう。そうすれば、なんとかクオリアを科学理論として扱うことができそうである。

だが、しかし。ここにもうひとつ、「えいや!」と乗り越えなくてはならない壁が存在する。

それは、自分の脳を使って「脳とクオリアの関係」を調べたとしても、その関係を、他人に伝えることができない、という原理的な問題である。

これが、2つ目の問題だ。

この問題の要点は、簡単である。

おれのクオリアは、おまえにはわからない(観測できない)」
おまえのクオリアは、おれにはわからない(観測できない)」
だから、おれとおまえで、互いにどんなクオリアを感じているか、伝える(説明する)ことができない

というだけの話である。

もう少し具体的に言おう。たとえばの話し、
きいてくれよ!ついに、脳とクオリアの関係がわかったんだ!
と言って、僕は自分の頭蓋骨をこじあけて、脳を取り出し、
いいかい?脳のここがこんなふうに動いてるとき、赤のクオリアを感じるんだ
と言って、目の前の他人に、脳が動くところを見せつけたとする。しかし、他人からすれば、そんな説明を受けたって、僕が実際にどんなクオリアを感じているかは、知りようがないのだ。

えー。そんなふうに脳の状態を見せられてもさ、君がどんなクオリアを感じてるか、僕には知りようがないじゃないか。っていうか、本当に、君、クオリアを感じてるの?まさか君……哲学的ゾンビじゃないだろうね?

ち、違うよ!
ちゃんと、クオリアを感じてるよ!
信じてくれよ!

それならばと、僕は、相手を押さえつけて、頭蓋骨をこじ開け、相手の脳に電極を刺しまくって、電気を流し、「僕が赤()を感じたときと同じ物理状態A」を強制的に再現してみた。

僕が「な?赤がみえるだろ?」と聞けば、相手は「うん、たしかに赤が見えるね」と答えるかもしれないが、実際のところ、彼はどんな赤のクオリアをみているのか、
これ()なのか、
それとも、これ()なのか、
僕からすれば まったくもってわからない。

そこで、僕は、電子顕微鏡を取り出し、もっともっとより細かく、相手の脳細胞の1本1本の動きを観察してみる。

すると、

ふむふむ、視神経から伝わった刺激が、こういうルートを通って、ここにつながって、ここの神経に刺激を伝えるから……、ふむふむ、それで、おまえは『ア・カ・ガ・ミ・エ・ル』と答えるわけか

という具合に、脳細胞の動きだけで、相手の行動がすべて説明できてしまうのだが、やっぱり、そこにクオリアなるものは一切出てこない。クオリアを持ち出さなくても、相手の行動がすべて説明できてしまったのだ。

結局、どんなに、相手の脳を眺めても、そこには、脳細胞という神経が、物理的な条件にしたがって、隣の脳細胞に、延々と刺激を伝えている、という歯車的な機械しか見つからない。

だめだ。やっぱり、おまえの脳をどんなに眺めても、どこにもクオリアはでてこない……。おまえがどんなクオリアを感じているのか、皆目見当もつかない。っていうか、本当に、おまえ、クオリアを感じてるの?まさかおまえ……哲学的ゾンビじゃないだろうなあ〜?

ち、違うよ!
ちゃんと、クオリアを感じてるよ!
信じてくれよ!

こんなふうに、結局のところ、自分の脳を切り開いて、

脳が状態Aになった ⇒ このクオリア()を感じる

という関係性の理論を作り出したとしても、
自分がどんなクオリアを感じているか伝えようがない
他人がどんなクオリアを感じているか知りようがない
という事実は変わらないのだから、その関係性を他人に伝えることは絶対にできない。

そして、他人に伝えることができないということは、みんなでその関係性の理論を共有して、検証するという作業ができないのだから、その関係性が、本当に、自分以外の他人にも成り立つ普遍的なものなのかどうかを確認することもできない。

だって、もしかしたら、目の前の他人は、脳が状態Aになって、「赤色を見てる」と答えていても、実際には全然違う「こんなクオリア()」を感じているのかもしれないし、それどころか、まったく何も感じていないのかもしれないのだ。

もちろん、こんなふうに反論する人もいるかもしれない。

いやいや、そんなことないだろう。誰の脳であろうと、物理的に、まったく同じ脳の状態を再現したら、まったく同じクオリアを感じるに決まっているでしょ

しかしである。他人がどんなクオリアを感じているか確認できない、という事実がある以上、確認できないものは確認できないのだから、確認できないものについて、何事も断言することはできない。

だってだって、もしかしたら、未知の粒子があって、その粒子が脳細胞と干渉することで、クオリアを感じるという仕組みかもしれないじゃないか!

もしかしたら、目の前のあの人は、その未知の粒子が脳に入っていなくて、実は、まったくクオリアを感じずに、ただ脳細胞が機械的に「赤いね」と音声を発しているだけかもしれないじゃないか!

もちろん、何の根拠もなく、未知の粒子を持ち出すのは、まったくのナンセンスである。

でも、実際のところ、「なぜ、脳細胞が集まると、クオリアがでてくるのか」ということについて、既存の物理学ではまったく説明できないのだ。だから、そこに未知のメカニズム未知の要因があると考えても、それほど飛躍した考えというわけでもない。

結局、そういう可能性が存在し、かつ、他人がどんなクオリアを感じているのかを調べる術はない、のだから、自分の脳を実験台にして、

脳の状態A ⇒ クオリアX(

という関係性を明らかにしたところで、

その関係性が客観的に正しいかどうか、他人と共有して検証しようがない
という問題がどうしても付きまとってしまい、つまるところ、科学の理論として、みんなが共有できる客観的なものにはならないのである。

それは、つまり、
クオリアを、科学として取り扱うことは出来ない
という結論を意味する。


(補足)
だが、まぁ、いいのだ。
上で述べている話は、すべて厳密に考えたときの話である。

世の中、厳密に考えすぎたら、どんな理論も構築することなどできない。たとえば、「水を電気分解すると、酸素と水素になる」という理論があるが、実際のところ、宇宙に存在するすべての水分子について、電気分解を行って確認したわけではない。だから、「この理論は、本当に正しいかどうか確認されたものじゃないのだから科学ではない」と疑うことは可能である。
(だって、すべての水分子について、確認したわけじゃないのだから)

だってだって、もしかしたら、未知の粒子があって、それが水分子と作用していたから、酸素と水素に分解していたのかもしれないじゃないか!だから、もしかしたら、何かの要因で、この未知の粒子が、突然、宇宙から消え去り、今後二度と、水を電気分解しても酸素と水素にならなくなる……ということだって起こりえるかもしれない!

結局、そういう厳密さ未知の可能性までも考えたら、「水分子を電気分解すると、酸素と水素に分かれる」という理論すら述べることはできない。そこまで疑いを広げたり、厳密さを求めてしまったら、そもそも、どんな科学理論も成り立たないのだ。

だから、科学としては、どこかで「えいや!」と
これ以上は、疑いません!
これ以上は、細かいことは問いません!
という基準(暗黙の了解)を決めてやらなくてはならない。そして、その基準(暗黙の了解)の上に、科学理論を構築するしかないのだ。これは、どんな科学理論であろうと同様である。

したがって、科学(物理主義)としては、「ある物理状態A → クオリアX」という関係が、すべての脳について、本当にそうなっているか、確認不可能であったとしても、
いいの!確認不可能だけど、正しいということにしてしまうの!
と「えいや!」と決めつけてしまえば良いのである。

少なくとも、科学(物理主義)にしたがうなら、
ある物理状態が再現されれば、毎回必ず、同じ物理現象が発生する
というのは譲れない前提であるはずだ。

だって、月と地球を目の前に持ってきたら、そこには、必ず、引力が発生するはずである。物理的に同じ条件なのに、あるときは発生して、あるときは発生しない、なんてことはありえない。

ある質量を持った物体が、2つあったら、そこに必ず「引力」が生じる。

こんなふうに、「ある物理状態を再現したら、必ず、それに対応する物理現象が生じる」ということを「信じる」のが科学であり、科学はその信仰によって成り立っている。

したがって、自分の脳を使って、「こういう物理状態になったら、こういうクオリアが浮かぶんだ」ということが確認できるとき、「他人の脳だって、同じ物理状態になったら、同じ現象が起きるはずだ」と物理主義者が考えるのは、とても妥当なことだと言える。

つまり、

「他人がどんなクオリアを感じているか知りようがないのだから、
『物理状態 ⇒ これ()』をどんなに示しても意味がないと思うよ」

という話は、

「そうだね。たしかに、他人がどんなクオリアを感じているか知りようがないよね。でも、いいじゃないか。
『ある物理状態になると、必ず、それに対応する物理現象が発生する』
というのが科学の信念なのだから、その信念に従えば、
『物理状態 ⇒ これ()』という関係性は、他人の脳の中でも成り立っている、といえるだろう。科学的には、これで十分さ」

と割り切ってしまえば良い話で、物理主義者にとって、それほど問題ではないのである。

では、最後の「3番目の問題」へ移ろう。

祝!書籍化!
本サイトが本に!

祝!2冊目!
書き下ろしが本に!

祝!3冊目!
バキの人が表紙に!

祝!4冊目!
またバキの人が!

祝!5冊目!
ポプテピが表紙に!

祝!6冊目!
哲学者が女の子に!

祝!7冊目!
ゆうきゆう先生
の人が表紙に!

祝!8冊目!
なぜか急に
むし食い漫画!

祝!9冊目!
初めて小説書いたら
佐藤優絶賛!

祝!10冊目!
なぜか急に
〇〇Tuber漫画!
『てつがくフレンズ』

⇒(続き) 『てつがくフレンズ』