実証主義
「科学的な命題・仮説・理論は、経験的事実に基づいて構成されるべきである。提示された命題・仮説・理論は、事実と照らし合わせ、その真偽が検証されなければならない」
ようするに、
「
経験された事実として確認できるまで何も信じませんよ!」ってことだ。
実証主義者によれば、「
直感や超越的な感覚」など、信じるに値しない。
たとえば、はるか昔から、人間は、
「自分にとっての10分は、他人にとっても10分に決まっている」
「自分にとっての10cmは、他人にとっても10cmに決まっている」
という「
絶対時間、絶対空間」を直感的に考えていた。
ようは、
「
10cmは、いつでも、どこでも10cm。そんなの当たりまえ!」
ということだが、
そんな当たりまえも、実証主義者に言わせれば、
「
ふ〜ん、で? それは実証されたの?」と、
絶対にそれを受け入れてくれない。
実証主義者の
マッハは
「
絶対空間?それは実証されたの?偉大なニュートン先生が、『絶対空間がある』って言ったからって、
そんなの関係ね〜よ。いいから、今すぐ実証してみろよ、ほらほら。え?できないの?なら、そんな概念も怪しいもんだな(笑)」
と当時の常識を覆すようなことを主張して、
アインシュタインの
相対性理論の構築に大きな影響を与えた。
(そして、相対性理論は、観測者ごとに時間と空間の定義が異なることを示し、直感的に信じられてきた絶対時間・絶対空間が、人間の勘違いだったことを明らかにした)
実証主義者の良いところは、「
何の根拠もなく、今まで信じられてきた前提」を覆して科学の新しい発展を促すところにあるが、一方で、実証主義者は、多くの人の感情を逆なでするところがある。
というのは、「
誰もが直感的に当たり前」、もしくは「
科学的宗教的権威から当たり前」だと思われていることに対して、「
実証してみ?」と問い詰めるからだ。だから、大抵の場合、感情的になり
「
おまえはなんてことを言うんだ!これが正しくないとしたら、とんでもないことだぞ!けしからん!」となる。
でも、実証主義者は、「
わかったわかった。それはいいから。はやく実証してみろよ」とくる。
量子力学の
ボーアなどは、
「
不確定性原理により、電子の観測には不確定性が付きまとうが、この不確定な範囲については、エネルギー保存則も光速度不変も、成り立つとは言えない。だって、その不確定な範囲について、電子がそういった法則で動いているということを、観測により実証することは、絶対に不可能だからだ。実証できないものを、憶測で『成り立っている』などと言うことはできない。つまるところ、不確定性原理における『観測不能な範囲』というのは、すなわち、物理学的に『実証不可能な範囲』であり、もはや物理学には関係のない領域なのだ」
と言いはなつ。
それに対して、アインシュタインは、
「
いいや、我々が観測していないときにでも、電子はなんらかの因果関係にしたがい、一定の物理法則のもとで動いている!そうに決まっている!!君は、人間が観測できないからって、観測していないときの電子が、今までの物理法則から外れたことをしているとでも言うのかい!そんなバカな話があるか!!」
と反論した。
たしかに、アインシュタインの意見は、まっとうなものだが、そんなものは、ボーアや実証主義者たちに言わせれば
「
だから、それはアンタの思い込みかもしれないだろ!いいから、ごちゃごちゃ言わずに、観測していないときにも、電子が既存の物理法則どおりに動いているか実証してみろよ!どうだい?……実証できないだろ?
だって、観測していないんだからな(笑)実証できていない以上、『観測していないときに、電子が既存の物理法則にしたがって動いているのか』を疑ってかかることは十分に科学的な態度だ。そして、アインシュタイン、アンタの言っていることは、実証にもとづかない『思い込み』であって、むしろ、そんなものを科学に押し付けようとしている、アンタの方が非科学的な態度なのだ。結局のところ、アンタの意見は、こうあって欲しい、こうあるべきだ、という願望であり、そんなものは、科学者のエゴで、ロマンにすぎないのだ」
となる。
なるほど、実証主義者の言うことは、一理ある。たしかに、世の中には、神秘主義や直感主義など、「
真実は直感によってしかたどり着けない」という思想があるし、人間は「自分が直感的に正しい」と思うことについては、異常なまでに信頼を置くものだ。
だが、実証主義者は、こう述べる。
「
少しは歴史学べよ。人類は、今まで、何度、その直感が外れてきたと思ってんだ?地球は平ら?太陽は地球を中心に回っている?絶対時間?実証もせずに、直感にしたがって、発言するということは、それと同レベルなんだよ」
ようするに「
いい加減なこといってんじゃねーよ」ということだ。