チューリングテスト

人工知能とは、「知能のある機械」のことである。
だが、『知能』とは一体なんだろうか?

1950年、数学者チューリングは、
「その機械(コンピュータ)に知能があるか?」
を判断するための試験方法を考案した。



まず、2台のディスプレイを用意する。
テストする人は、その2台のディスプレイに向かって、質問をなげかける。
「元気ですか?」とか「今日は、暑いよねぇ〜?」とか。

1台のディスプレイは、人工知能コンピュータにつながっており、
それが受け答えをする。
「はい、元気ですよ」とか「やっと夏らしくなってきましたよね」とか。

もう1台のディスプレイは、本物の人間につながっており、
その人がキーボードで、文字を打ち込んで、質問の答えを返す。
「元気ハナマルだにゃ」とか「あぅ〜、暑いのにゃ〜」とか。

もちろん、テストする人は、どっちのディスプレイが、人間につながっているのか、
わからない状態なので、色々な質問をし、両方の「知能」を試す。
たとえば、アニメの感想を聞いてみたり、好きな声優について論じてみたり……と。

こうした質問の結果、テストする人が、
最後まで、どちらが人間なのか、わからなければ、そのコンピュータは合格である。
「そのコンピュータには知能がある!」と言えるのだ。

この試験方法をチューリングテストと呼ぶ。

このようなテストに合格した人工知能コンピュータは、
「知能がある」と言ってもいいのだ、とチューリングは提唱する。

しかし、とはいうものの……、このチューリングテストでは、
「コンピュータは人間を真似ることによって、人間を騙している」
というだけであり、つまるところ、「知能」というものの本質から
外れているのではないか?という批判は当然ある。

「知能のある/なし」の判断に、こんな浅薄な方法でいいのか?
という当然の疑問だ。

だが、チューリングテストは、
そう簡単に「浅薄」だと片付けられるようなものではない。
「知能」について、別の本質をついているのも事実だ。

それは、
「そいつに知能があるかどうかは、結局のところ、個人個人が決めるしかない」
ということだ。
逆にいえば、
「その人にとって、『知能を持った存在』だと思えるなら、もうそれでいいじゃん」
ってことだ。

そもそも、人間の脳を、どんなに解剖しても、
知能もココロも取り出すことはできない。
やっぱり、人間も、受け答えの反応から、
「あ、こいつには知能があるね」と判断して、
初めて、「知能」というものを認識するしかない。

(だから、逆に言うと、誰かと話していて、「こいつには知能がない」と思うならば、
 本当にそいつには 「知能がない」 と考えてもいいことになる。
 そして、実際、僕らはそれをやっている。相手が本物の人間だろうと。
 上図のチューリングテストの例で、
 人間の方に対して「知能がない」と判断した人もいるだろう)

ぶっちゃけていうと、「知能があるか?」なんて、そもそも証明できない。
だから、「知能があるか?」を決めるのは、
「人間の主観による思い込み」でしかできないのだ。

その意味で、チューリングテストは、
「コンピュータに知能があるかを調べる方法」として、
ある面において、非常に的を射ている。

(補足)
そもそも、ある対象に対して「知能があるかないか?」なんて、
本当のところは絶対にわからない。
だから、コンピュータとしては、「知能があると認めてもらう」ためには、
つまるところ、「知能があるように演じるしかない」。

それは、人間だって同じことだ。

実際に知能があろうとなかろうと、
知能があることを他人に見せなければ、知能がないと断定されてしまう。
「本当に知能があること」 と 「知能があると認めてもらうこと」 は別なのだ。

だから、人間もコンピュータも演じるしかない。

本当は怒っていても、笑っているように演じるしかないように。
知能があろうとなかろうと、知能があるように演じるしかないのだ。

天才チューリングは、ホモセクシャルだった。

社会に対して、正常な「男性」を演じ続けなければいけなかった彼にとって、
その一生は、まさにチューリングテストだったと言えるだろう。